PROJECT 特集
禎子の折り鶴を世界中の⼈に届けるプロジェクト
禎子の折り鶴とは
広島に原爆が投下された1945年。当時2歳の佐々木禎子さんは被爆し、10年後の12歳の時に白血病を発症され亡くなりました。禎子さんが闘病生活中に1,000羽以上の「病気の回復の願い」を込めて折った鶴が『禎子の折り鶴』と呼ばれています。現在では、「平和への想い」「世界平和と幸福の祈願」のシンボルとしての意味を持っています。
禎子さんがモデルになった原爆の子の像(広島平和記念公園内)の前には毎年1,000万羽以上、重さにして10トン以上の折鶴が世界中から届けられるようになりました。
※禎子さんの写真、平和公園の千羽鶴の写真
禎子さんがモデルになった原爆の子の像(広島平和記念公園内)の前には毎年1,000万羽以上、重さにして10トン以上の折鶴が世界中から届けられるようになりました。
※禎子さんの写真、平和公園の千羽鶴の写真
数に限りがある禎子の折り鶴。紙ゆえに保存の問題も
現在、「禎子の折り鶴」は、佐々⽊家と広島平和記念資料館内のものを合わせ100羽程度しか残っていません。⽇本各地や世界各国から「禎子の折り鶴」の寄贈依頼が佐々木家にはありますが、数に限りがあるため、全ての要望に応えたくても応えることができない状況となっていました。
又、折り鶴の材質も紙ゆえに、色の退色や劣化が進行するため、その保存には専⾨的な知識と高額な設備も必要な状況でした。
※展示されている禎子の折り鶴の写真
又、折り鶴の材質も紙ゆえに、色の退色や劣化が進行するため、その保存には専⾨的な知識と高額な設備も必要な状況でした。
※展示されている禎子の折り鶴の写真
最新のデジタル技術と従来のアナログ技術の融合で不可能を可能に
広島県に本社を置く企業として、「平和の象徴でもある折り鶴で何か発信することができないか」との我が社(弊社)の想いから、本プロジェクトはスタートしました。
禎子の折り鶴を世界中の人の手に届けることは本来では「不可能」です。
しかし、折り鶴を最新のデジタル技術で3Dスキャンすることで折り目や紙の質感、シワまでもデータ化することが出来、そのデータを精密鋳造技術で金属化することで禎子の折り鶴は永遠の折り鶴として世界中の人の手に届けることが出来ます。この技術の融合は正にオンリーワンの技術です。
※折り鶴をスキャンしている写真
禎子の折り鶴を世界中の人の手に届けることは本来では「不可能」です。
しかし、折り鶴を最新のデジタル技術で3Dスキャンすることで折り目や紙の質感、シワまでもデータ化することが出来、そのデータを精密鋳造技術で金属化することで禎子の折り鶴は永遠の折り鶴として世界中の人の手に届けることが出来ます。この技術の融合は正にオンリーワンの技術です。
※折り鶴をスキャンしている写真
禎子さんの想いを表現したい
今回の折り鶴は禎子の折り鶴の中でも特に、特別なストーリーがあります。
禎子さんが亡くなられた際に枕元にあった、禎子さんが最期に折られた折り鶴なんです。
小さな小さな折り鶴にも関わらず、丁寧に力を込めて折られていることに私達は大変驚きました。
この折り鶴を初めて手にした時、禎子さんの願いや想いまでが伝わってきました。
「禎子さんが自身の折り鶴に織り込み託した願いや想いを形にする」それが、私達の一番の使命だったように思います。
※完成した商品写真
禎子さんが亡くなられた際に枕元にあった、禎子さんが最期に折られた折り鶴なんです。
小さな小さな折り鶴にも関わらず、丁寧に力を込めて折られていることに私達は大変驚きました。
この折り鶴を初めて手にした時、禎子さんの願いや想いまでが伝わってきました。
「禎子さんが自身の折り鶴に織り込み託した願いや想いを形にする」それが、私達の一番の使命だったように思います。
※完成した商品写真
佐々木禎子さんの兄・佐々木雅弘様のコメント
平和を発信する場所が無限に広がるという喜びが大きいです。
レプリカということではなく、禎子を3D技術と精密鋳造技術で心と共に蘇らせていただいたということでこの金属製の折り鶴を『SADAKO』と命名して世界中の人の手に届けたいです。
そして、この『SADAKO』を通じて心と心の繋がりを世界中の方と共有したいです。